貴重な時間を割いてのお話し、ありがとうございました
そして、その近くに行ってみようとした時、心臓が痛くなり、倒れかけました。
恐怖心がそうさせるのか、それとも、そこにいる霊の仕業なのか分かりませんが、すぐにその場を去りました。
後で友達にその話をしたら、友達の知り合いにその村の下に住んでいる人がいて、その人の話によると、昔からそこには近づくなと言われていたらしいです。
そこであった事件は本当の事だと言っていました。
皆さん、興味本位で行くのはやめましょう。とんでもない事になると思いますよ。
09/05[ポンチ@]
現地を訪れても、何も無いでしょう。
僕は、梅田の近くに住んでるんですが、お坊さんの霊とかは見たこと有りません。
って言うか、梅田は元々沼地で、しかも、川からの荷揚げで賑わっていたと聞いてますから、流石に死んだ人は捨てていなかったんちゃうかなと思うんですが…でも、長堀橋はホンマにヤバイらしいです。
B29の話以外にも、人柱が使われているって聞きました。
さて、今日投稿したのは、淡路島のトンネルについて、詳しく知ってる人がいたら教えていただきたいなと思って投稿しました。
場所は、洲本から五色へ抜ける山道の山頂で、いまは閉鎖されているトンネル。
メインの道から細い脇道があって、そこから今でもトンネルの入り口まで行けますが、柵があって中に入れません。
交通事故が多発したと聞いていますが、何があったのか知っている人は教えてください。
何があったのでしょうか。
良い思い出があり、大好きな私の地元を変な事に巻き込まないで下さい。
真相は番組のとおり。「真・杉沢村」とはネットで噂して、これから出来上がる架空の村のこと。
戦国時代、津軽為信の津軽統一の際に滅ぼされた北畠氏には、北畠顕家の末裔で浪岡御所(本家)・川原御所(分家)と呼ばれる二つの家がありました。
当時、岩手・青森の一帯を支配していた南部氏の庇護下にありましたが、それぞれの当主が暗君で人心は離れて、本家と分家で争っていました。
加えて南部氏による圧政もあって津軽為信の蜂起に際し民衆は為信に味方したそうです。
為信に滅ぼされた北畠氏は、自刃したとも落ち延びたともいわれています。
落ち延びた先も諸説あって、南部氏のもとに逃げ北畠弾正を称したとか、隣国出羽の安東氏のもとに逃げ浪岡弾正と称したとか。
家臣の朝比奈氏のもとに落ち延びたとか、南部氏家臣の堤弾正左衛門のもとに落ち延びたとかがあります。
家臣も為信に降った者の他は、入内(青森市)・西目屋(南津軽郡)などの山間部に落ち延びたと言われています。
この小畑沢には小杉いう小字しかありません。
津軽藩の記録によれば、ここは突如江戸時代になってその存在が出てきます。
小畑沢の北にある荒川地区の古老の話では「昔からあそこは北畠の落人部落だ」と庄屋の家や世話役の家に代々語り継がれてきたそうです。
この荒川地区は昔から集落があって、戦国時代は横内城の堤氏の同盟者が荒川城(実伝不明・城主は出羽より流れてきた武将と古老は言う/または、堤氏の同盟者の高田城主土岐大和之助の領地とも言う)におり、そのため青森平野南部の開墾の拠点となりました。
また、庄屋の家は2代藩主の生母の実家の分家で、名字帯刀お目見えの格式を与えられていたそうで、恐らくその庄屋の家が、名家を断絶させたくはないが滅ぼした手前、家臣として寓する事が憚られた津軽藩の暗黙の了解の下で庇護してきたのではないかという事です。
実際に資料等で確認が出来ていませんから信憑性は?ですが。
小畑沢村が、旧高田村(新山千春の故郷)と合併し、旧高田村の青森市との合併に際して、大字小畑沢となったそうです。
最近、空港方面が真の杉沢村だと言われていますが、それは恐らく旧大谷村の事ではないでしょうか。
大谷地区は空港整備により立ち退きがあり、10年ぐらいまでは、最近の状況は知りませんが廃屋や分校がありました。
しかし、そこを「スギサ」「シゲサ」と呼んだ歴史はありませんし、事件も無かったと聞いています。
他に市内各地で「スギサ」「シゲサ」と呼ばれるものがありますが、それは屋号のようなもので、杉沢から来た人を「○○(地名)のスギサ」とか「☆☆(地名)のシゲサ」と呼ぶそうです。
なぜなら、その地区の人は皆同一の姓を名乗っているからだそうです。
何と言う姓かは知っていますが悪しからず。
ではまた。
09/04[杉 克興@]
落人伝説ですか…。
実情は、
大正か昭和の初め頃、昔から修練場のある通称杉沢
村は厳しい自然の関係もあって、次第に寂れていって廃村となった。
その後は…いろんな噂が出て有名になってしまった。
というところです。
初回のメールにも記述しましたが、現在では一番近い合子沢集落の社を管理している方が「現地」を管理しています。
何か話に聞いたのですが、先頃TV番組『アンビリバボー』が取材に来ていたらしいですが、それに出た管理人が本物の管理人かどうかはわかりません。
以前は道路さえ見つけるのも大変でしたが、以前(5,6年前)よりかなり入り口が広くなっていました。交差する道路まで行ったら行き過ぎです。
やはり夏ですので、鳥居は一つしか見えませんでした。
「消えた村」HPにある鳥居の写真の所にもう一つの石が有りました。
何故か石の左手の立派な杉の木には梯子が架けられていました。
5,6年前に行った時の記憶が既に錯綜していて、それを再確認できたのです。
今回、緑が深くて見えなかった部分もかなり鮮明に思いだす事ができました。
やっぱり現地確認が大事ですね…。
鳥居と石です。お墓は「お地蔵」さんぽかったでした。
何ともいえないものでした。お墓には「○○家」とありました。「○○」は青森によく有る名字です。
今回は車で行ってしかも4人でしたので、かなり落ち着いて観察できました。道は全てそこで途切れてました。
やはり、初めて発見した時の春スキーの頃に全部回るのが一番見渡せるし、明るいので、雑草や木の葉に邪魔される事なく、過去に存在した道路とかも木の立っている場所から判別できます。
来年の春にでもじっくりと見に行きたいと思います。
「消えた村」の報告は今回で終わりにして「雪中行軍・後藤伍長銅像」の話をそのうち、まとめてから報告したいです。では、また。
08/31[あきお@]
後藤伍長銅像、お待ちしております。
少なくとも、載っているのはそれではないとの事です。
詳しくは分かりませんが、そういう事だそうです。
では、詳しい事が分かり次第また来たいと思います。では…。
08/28[K@d]
マスターの話は、9年前の話だと思いますが…。
昭和25年頃に付近で勤務していた方の話では、集落の入り口にある鳥居(恐らく庚申塚か何かで、市内各地にそういう鳥居と石があります)を囲む大きな5本の杉の木が、遠い麓の集落からも見えた事。
沢一帯に杉が群生している事から杉沢と呼称したのではないかという事です。
そこは林業が中心の集落で、近隣の村から農家の次男三男の若者が住み込みで働きに来ていたそうです。
又、近隣の古老の話では、その集落はかつては規模が大きく、立派な寺社があったという事です。
山奥という事で交通の発達などが遅れ不便であったため、住民は立ち退いたそうです。
そして、集落の共有財産(山。青森南部では財産区というものをつくって管理している)の権利等の絡みで3軒が残ったそうです。
鳥居の先、Y字路の右手の道を進むと畑があり、左手に進むと比較的新しい建物のある土地があります。
そこに2軒の家があり、沼近くの空き地にもう1軒があったという事です。
大量惨殺事件はありませんでしたが、その空き地にあった家では事件があったのです。
詳しい時期は不明なのですが、昭和25〜28年ぐらいだそうです。
その空き地に住んでいた一人が…。
事件からほぼ1年後には野焼きか何かの火に巻き込まれて不慮の死を遂げたそうです。
3軒の家は、夫々別の地区に移り住んだという事で、現在もその家族が生活しています。
今年の夏に現地に行って見てきましたが、杉木立の中にひっそりとしていました。
08/25[杉 克興@]
石碑は猿田彦〜。地元には多いわけですね。
ビデオに録ってたから友人にも見せたりして、フジテレビにも問い合わせをしたけど、その後連絡がなくて、ずっとそれっきりにしてたのね。
その後、そのビデオも上から別の番組とってしまったけど、誰か同じの見た記憶のある人いませんか?
別に何の祟りもないけど、ずっと気になってたの。知ってたら教えてね。
『アンビリ』で解析を(^^;
彼の話をすると怪異が起きるのです。
私が初めて修学旅行でこの話をした時、小豆島で偶然彼のお墓があるのを知ったのです。
もう彼を知っている人はあまりいません。
知っている人は彼にまつわる話を教えてください。
ただ、彼の話をすると怪異が必ず起きるのです。
彼は明治天皇のじいやでした。
彼は甥とどちらか一人を生かしてやると言われ犠牲になりました。
その本は『日本の幽霊』でしょうか。
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